今晩は!
今回の小説は、今年の春頃にブログ周年記念で配布した冊子へ入れた書き下ろしの趙劉話です。
半年以上経過したのと、手元にひっそりデータを置いておくだけなのも何かという事でこちらにアップします。
企画に参加下さった皆様、その節はありがとうございました!!
気が向いたらまた周年本でも作ろうかと思っておりますので、それまでにまた色々書いていけるように頑張ります!

いつも励ましのお言葉、反応くださいましてありがとうございます。
これからも宜しくお願いいたします!!



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ネーム・オブ・ラブ

 

 

 

珍しく明け方前に劉備が目を覚ましたのには、理由がある。

夢うつつの状態のまま、彼は居てくれるはずの傍らの温もりに甘えかかろうとしたが、手を伸ばした先には体温の消えた冷たい敷布しか無かったのだ。

予想とは違うひんやりとした温度を指先に感じて、劉備はまどろみから目覚めて身体を起こす。

敷布の冷たさから相手が部屋を辞したのは随分と前らしい、早出の用でもあっただろうかと空っぽになっている隣を眺めつつ昨夜の相手とのやり取りを思い返してみたが、そんな話はどこにも無かった記憶しかない。

いつもと違う相手の去り方に劉備は違和感を抱いて、独りきりのまだ薄暗い部屋を見渡した。

 

朝になって、広間に皆が集まり挨拶に来る時間になっても、劉備が一番に顔を見たい人物は現れなかった。

広間を出て廊下を歩きながらそれとなく諸葛亮に彼の事を聞いてみると、急に早出の用事が出来たとかで馬岱と共に出ていると言う。

「お戻りは昼過ぎになるでしょう」

諸葛亮はそう言って羽扇をふわりと動かしたが、なにか気になるような様子で軽く首を傾げた。

「ですが、この用事も必ず今日行かなくてはいけない内容では無かった筈なのです。それでも趙将軍がお独りで行かれると言うのを心配して馬岱殿が付いて行って下さったのですが、さて」

軍師が劉備へちらりと目線を送る。

何か言いたげなその目つきに、劉備は軽く眉根に皺を寄せて唇を尖らせた。

「なんだその顔は。私だって子龍が早出なのを知らなかったから、そなたに聞いたのに」

「そうでしたね、失礼いたしました。殿でしたら将軍のご不興の理由がお分かりかと思いましたので」

諸葛亮の言葉に、劉備は驚いた表情に変わる。

「・・・不興?」

昨晩の趙雲の様子におかしな所は無かった筈、と改めて劉備は思い返した。

いつも通りの穏やかな笑みでゆったりと言葉を交わし、真心のこもった仕草で温もりを分け合った、幸せなひと時を共有した夜だったと思えている。

ただ、朝方の冷え切った敷布の感覚だけが劉備にとっての唯一の違和感であった。

顎に指先を当てて、何かを思い返す様な様子の主君に、諸葛亮は小声で問いかける。

「失礼ながら、趙将軍と殿が喧嘩でもなされたのかと」

いつもの劉備ならば自身に何かしら思い当たる節があると、諸葛亮のこの問いに慌てて反論するのだが、今回は妙に真面目な顔で首を振った。

「・・・いや、していない。全く思い当たらないぞ」

後ろめたさの無い劉備の言葉に、諸葛亮も頷いて小さく息をつく。

「左様ですか。将軍とお会いしたのは随分と朝も早かったので、私の見間違いだったようです。申し訳ありません、忘れて下さい」

「・・・ああ」

返事はするが、彼の表情はどこか冴えない。

諸葛亮がもう一言、主君の気持ちを和らげる言葉を告げようと口を開きかけたが、給仕係の者が劉備へ食事の用意が出来た、と告げに来たので彼は静かに羽扇をひと扇ぎして相手の横顔を見つめるしか出来なかった。

 

昼過ぎ、と諸葛亮は帰り時間を見積もっていたが、実際に趙雲たちが戻ってきたのは昼下がり、と呼ぶくらいになった頃だった。

きちりと拱手の礼をして報告する趙雲と馬岱に、諸葛亮は静かに頷いて労をねぎらう。

「大変助かりました、ありがとうございます。お二人とも早朝からお疲れ様でした。今日は夕方までお休みください、皆に伝えてありますので」

諸葛亮の気遣いに、頭を上げた趙雲が小さく笑む。

「ありがとうございます、ではお言葉に甘えて・・・」

再度礼をして下がろうとした彼に、軍師が嗚呼と思い出したような声を上げた。

「お二人とも、お休みになる前に劉備殿へもご挨拶に行って下さいますか。早出と聞いて殿が心配されていましたから」

その言葉に、趙雲の顔が一瞬強張ったのを軍師は見逃さなかった。

彼の斜め後ろに居る馬岱も、ちょっと困ったような表情を諸葛亮へ見せる。

もの言いたそうな馬岱の様子に、やはり劉備の関係でなにかあったのかと軍師は確信しながらも、表情は変えずに再度趙雲へ念を押した。

「趙将軍、宜しくお願いします」

「・・・はい」

表面上は冷静を保った様子で忠臣は頷くと、踵を返してその場を去って行く。

馬岱も彼に倣いつつ、諸葛亮へはまた後で、と目で告げて趙雲と共に部屋を辞して行った。

 

「ほらあ、やっぱり劉備殿心配しているじゃないですか」

早足で廊下を行く趙雲の後ろから馬岱が急いで声を掛けるが、相手は振り返らないまま言葉を返す。

「あの方は、皆の事を心配されるのですよ」

趙雲は冷静な物言いを心掛けているようだが、言葉の端々に小さな棘が含まれていることに馬岱は気付いている。

「確かに劉備殿はみんなに優しい方ですけれど・・・」

相手の心の奥に生じている焦燥感が分かるからこそ、馬岱は趙雲へ掛ける言葉に迷ってしまった。

そんな相手へ、趙雲は振り返って微笑して見せる。

「すみません、朝早くから付き合わせてしまって。殿への挨拶が済んだらゆっくり休んでください」

こちらを気遣う相手の優しさに、馬岱は頭を掻きながら困ったように眉を下げた。

「うん、俺は大丈夫なんだけれど、趙雲殿が、ねぇ・・・」

「私は大丈夫ですよ」

嫌なことがあった時に隙のない笑顔を作るのは、この御仁も同じだなと馬岱は思う。

苦しさも、哀しさも、悔しさも、目の前にいる三国一の忠臣と讃えられる男は笑顔で隠してしまえる事が彼には一番の心配だった。

その笑顔は、ほんとうに好きな人と本気の喧嘩をすることすら阻んでしまう壁となってしまう事を知っている。

本心とは正反対に作られた笑顔は、時として相手へ不信を招いてしまう場合もあった。

これは一途で誠実で、真面目な趙雲に似合う笑顔では無い、と馬岱はしみじみ思い、それをどう伝えるべきか、と相手の背中を見ながら考えていると、後ろから誰かが駆け足で近づいてくる。

「馬岱様、馬岱様お待ちください!」

名前を呼ばれて馬岱は立ち止り、趙雲も足を止めて振り返った。

そこには軍師付きの侍従が、こちらに向かって拱手の礼をしている。

「諸葛亮様が、いま一度お戻りくださいとの事です」

引き留められた理由を聞いて、馬岱と趙雲は顔を見合わせた。

「軍師殿が?報告はさっき趙雲殿がしてくれたけれど・・・」

「今朝の件では無いそうです。先日、姜維様とご相談された兵站の事だそうです」

馬岱は首を傾げて鼻を鳴らす。

「んん?アレも話が纏まったと思うんだけどなぁ・・・どうしたのかな諸葛亮殿?」

侍従は一層頭を下げて申し訳なさそうな声を出した。

「少し気になる所があるとのお話で、忘れない内にお聞きになりたいと・・・お疲れの所、申し訳ないと諸葛亮様が仰っておりました」

腕組みをして馬岱は少し考える素振りを見せた後、侍従に頷いて見せる。

「分かった、直ぐに行くよ。君は先に戻ってて」

そう返事をして侍従を諸葛亮の元へ帰すと、彼は趙雲へ身体を向けた。

「すみません趙雲殿。そう言う事だから、先に劉備殿の所へ行っていて下さい」

「分かりました」

素直に頷いて別れようとした趙雲に、馬岱は急いで声を掛ける。

「あ、それと趙雲殿!」

「?何でしょう」

何事かと振り返った趙雲の目に、真面目な表情をした馬岱が映った。

「劉備殿の前では、あんな風に笑っちゃダメですよ」

「・・・え?」

「ちゃんと話して、ちゃんと喧嘩しないと、ダメですよ!」

相手の疑問を待つことは無く、馬岱はそこまで言うと来た道を戻って行く。

馬岱の言葉の意味が分からず、趙雲は暫く去って行く相手の背中を見ているしか出来なかったが、ふと我に返って劉備の居る部屋に向かって歩み始めた。

 

入口から入室を告げる聞き慣れた声を耳にした劉備は、少し不安そうな表情を目の前の相手に向けた。

白眉と呼ばれる彼は、その不安を和らげるような笑みを見せて、机上に広げた書簡を手早く片付け始める。

「失礼いたします。趙子龍、只今戻りました」

礼儀正しく挨拶をした彼に、劉備は穏やかな声を投げ掛けた。

「おお子龍、早朝からご苦労だったな。孔明から聞いていた帰り時間よりも遅かったようだが、大事は無かっただろうか?」

頭を下げたまま、趙雲ははいと応える。

「途中の道がぬかるんでいて少し手間取りましたが、何事も無く戻りました」

「そうか、ならば良かった」

拱手の姿勢のまま淡々と答える趙雲の様子は、諸葛亮が見立てた通りに気持ちがささくれ立っているようだと劉備はすぐに気が付いたが、その理由を聞くために後の言葉をどう切り出せば良いのか分からず、口籠ってしまった。

二人の間に暫く、沈黙が落ちる。

劉備から次の言葉が無いと判断したらしい趙雲が、ではと声を出した。

「お忙しい所、お邪魔致しました。私はこれで」

硬い口調で退室を告げた忠臣に、穏やかな声音でいますこし、と語り掛けた人物が居る。

「趙将軍、お疲れのところ申し訳ございません。お食事は召し上がりましたか?」

劉備の傍らに居た馬良に思わぬ問いをされた彼は、礼の姿勢を崩して戸惑い気味に言葉を探した。

「あ・・・いえ、途中の陣で軽い朝食は食べましたが、昼食は・・・」

それを聞いた馬良は笑みを湛えたまま頷き、椅子から立ち上がる。

「でしたらこちらにお掛けになってくださいませ。これから殿とお茶を戴こうとしていたのです。いまお菓子やお茶を準備させているところですので、将軍も是非ご一緒に」

相手の提案に、趙雲は困った顔でその場に立ち尽くした。

「どうぞ私にはお構いなく・・・戻ったばかりで埃っぽい姿ですし、お二人の邪魔をしてしまいますので」

趙雲がそう遠慮している傍らで、彼を受け入れるように着々と茶菓子が運ばれ、茶道具が卓の上に三人分揃って行く。

馬良も趙雲の話をうんうんと聞きながら、手元の書簡を綺麗に片付け、着々と準備を進めている。

「埃っぽいなどとはとんでもない、将軍は戦場以外で殿の前に立たれる際、必ずご自身のお召し物に汚れが無いか確認されているとお聞きしております」

思いがけない相手の話に、劉備の目は丸くなり、趙雲の顔にさっと赤みが差した。

「へ?そうなのか季常??」

「ば、馬良どの・・・っ!」

二人の顔を交互に見つめ、白眉が口元を隠して悪戯っぽく笑う。

「ふふふ、実はわたくし地獄耳でして。さあ趙将軍。お邪魔などとは仰らず、お掛けになってくださいませ。お茶はわたくしが淹れましょう」

趙雲に席を進めながらこちらに目配せをする馬良の気遣いに気付いた劉備も、急いで身振りを付けて言葉を続けた。

「子龍、共に季常の茶を飲もう。ほら、ここへ」

劉備の言葉に一瞬、口元を引き締めた忠臣だったが、断れないと判断したらしい。

彼はもう一度頭を下げると、二人が示した椅子へ腰掛ける。

手際よく茶を淹れる馬良の手元を見つめながら、劉備は趙雲への言葉を探した。

「子龍、馬岱と一緒だったのだろう?」

顔を見つめて語り掛けてみたが、相手はこちらを見る事無くええと返す。

「こちらへ来る途中まで一緒でしたが、馬岱殿は再び軍師殿に呼ばれてそちらへ行かれました。後ほど殿の元へご挨拶に来るでしょう」

事務的な相手からの返しだと気付いた劉備の声に、僅かな影が混じった。

「そうか。・・・あれも忙しい身だな」

劉備の少なからぬ落胆に気付く素振りも見せない趙雲は軽く頷く。

「気遣いの出来る方ですから」

「ふふ、そなたと同じだな」

「いえ、私など足元にも及びませぬ」

思い切って相手へ笑顔を向けてみたが、趙雲はこちらを全く見ないまま、硬い響きの会話が終わった。

そのまま趙雲から語り掛けてくる様子のないまま、馬良が茶を淹れ終わってそれぞれの前に茶碗が置かれる。

皆の皿の上が空っぽなことに気付いた馬良が、酷く残念そうな声を出した。

「まあ、殿も将軍もお菓子を取っていらっしゃらなかったのですか?折角美味しそうなモノばかりですのに」

その言葉に、趙雲がハッとした様子で立ち上がる。

「これは・・・申し訳ありませぬ。劉備殿、お取り致しましょう」

手を差し出されたが、劉備は先程の相手の硬い声音に気圧されて皿を出すことを躊躇った。

「殿」

こちらを促す趙雲へ片手を上げて、劉備は自ら腰を上げて皿を手にする。

「いや・・・自分で取ろう。子龍も自分の好きなモノを取ってくれ」

劉備にそう言われても、趙雲は差し出した手を戻すことなく否と強めに返した。

「いえ、私がお取り致します。皿を・・・」

「お待ちくださいませ」

柔らかな仕草で、脇から劉備が手にした皿を馬良がそっと奪う。

その皿を改めて劉備の前の卓上に置くと、馬良は笑みを収めて二人を見つめた。

「お二人とも、お掛けになってくださいませ」

「季常・・・?」

さあ、と馬良がひらりと椅子を指し示す。

「どうぞ、お掛けに」

穏やかな声音だが、その中には強さが含まれていて、劉備と趙雲は静かに座り直した。

大人しく腰掛けた二人に馬良は頷いて見せると、劉備の皿を手にする。

「今日はわたくしがお二人の菓子をお取りしましょう。殿、何を召し上がられますか?」

白眉の提案に驚いた趙雲が、慌てて腰を浮かせた。

「馬良殿!それは私が・・・」

「趙将軍」

ぴりっとした呼び掛けに、趙雲の動きが止まる。

普段、苛立ちを見せない馬良の厳しさを含んだ声に、劉備も驚いて彼を見上げた。

「わたくしが、致します」

凛とそう告げると、馬良は再び劉備へ好みの菓子を穏やかに尋ねはじめる。

言葉少なの返答だったが、自身に対する小さな叱責が含まれている事に気付いた趙雲は大人しく座り直した。

劉備への菓子を取り分け、次に趙雲への菓子を取り分けた馬良は、自分の皿を空にしたまま劉備へ頭を下げる。

「季常、いかがしたのだ?」

礼をする白眉の手に、劉備は己の手を重ねて問うと、顔を上げた馬良は寂しそうに笑んで見せた。

「申し訳ありません、折角のお茶の席でご不快な思いをさせてしまいました。わたくしは此処で失礼いたします」

意外な退室の言葉を耳にした劉備が、馬良の手を握って首を振る。

「そなたが何の無礼をしたと言うのだ?見事な気遣いを見せてくれただけではないか」

「いいえ、ご無礼の事ばかりではございません。わたくしが居てはお話したいことも出来ませぬでしょう」

劉備の手をそっと押し戻しながら、馬良は柔らかく笑みかけた。

そして趙雲へも頭を下げる。

「趙将軍、先程のご無礼をお許しくださいませ」

「と、とんでもありません!むしろ、私の至らなさを教えて下さいまして、ありがとうございます」

急いで立ち上がり、礼を返した趙雲に、馬良はいつもの笑みを見せた。

「畏れ入ります、将軍。どうかその素直なお心を、殿へそのままお話ください」

「馬良殿・・・」

改めて二人に丁寧な辞去の挨拶をすると、白眉は早足に退室して行く。

二人きりにされて、またぎくしゃくとした空気が戻ってきた。

目線を足元に落として無口になってしまった相手に、劉備は努めて落ち着いた口調で呼びかける。

「子龍、季常が淹れてくれた茶を、冷めぬうちに戴こう」

小さな声ではい、と返事が聞こえて来たので、劉備は相手の動向に構わず自分の席につき、温かい茶を手に取った。

茶を啜り、菓子に手を付けていると、暫くして趙雲も彼の傍らに座って茶碗に手を伸ばした様子が横目に見える。

お互い無言のまま茶と菓子を食し、馬良の淹れた茶が空になった頃、趙雲が再び席を立った。

このまま相手は退室するだろうか、と劉備の中に小さな不安が生まれたが、趙雲は茶道具を己の手元に引き寄せ、こちらに声を掛けてくる。

「劉備殿、お淹れ致しましょうか?」

先程よりは硬さの取れた彼の声に、劉備は僅かにホッとする。

頼む、と素直に茶を所望しながら、彼は趙雲の顔を見つめた。

「子龍、教えて貰いたい事があるのだが」

湯を扱う己の手元を注視しながら、何でしょうと忠臣は訊ねる。

劉備は腕組みをして、これから相手に向けて問い掛ける言葉を探した。

「今朝の、ことだが」

「はい」

「何かあっただろうか?」

「いいえ」

間髪入れない否定の言葉に、棘が含まれていることを劉備は気付く。

眉間に軽く皺を寄せて、彼は忠臣を問い質しにかかった。

「あったな」

「ありません、早出の用があっただけです」

眉ひとつ動かさないままそう答え、彼は茶を淹れる作業を続けている。

その涼しげな顔を劉備は見据えたまま、鼻を鳴らした。

「ほう?早出は今朝、そなたから行きたいと言い出した急な話だったと孔明から聞いているが。それに、独りで行くと随分頑張ったそうではないか。孔明が珍しく困っていたぞ」

後半は諸葛亮から聞いた話よりも少し大げさに言ってみたが、それに趙雲は反応する。

僅かに戸惑うような顔になり、目が泳いだ。

「それは・・・日の出前の仕事ですから、他の方に手伝って頂くのは忍びなかっただけのことで・・・」

落ち着かない様子で急須の蓋を指先で軽く叩く趙雲の手元を眺めて、劉備は深い溜息をついた。

「・・・なぁ子龍。私といるのが嫌になったのか?」

趙雲の指先が、ぴたりと動きを止める。

卓に頬杖をつき、劉備は窓の外へ目を遣って、もう一度疲れたように息を吐いた。

「このように冷たく接して私へつまらない言い訳を作り続けるくらいならば、はっきり言って欲しい。そなたにとって私が不要だと言ってくれたら、このように面白くもならない問答など直ぐに終わらせるが」

本当は、自分から決して口にしたくない言葉だった。

だが、あまりに頑なな趙雲の様子に劉備は疲れて、半ばやけになってしまっての発言である。

原因が自分にあるのは何となく分かるのだが、その理由を好きな相手から教えて貰えずただ冷たくされるのは、あまりに辛かったのだ。

言うだけ言ってしまった劉備は、相手からそんな話はするな、という台詞が返って来る事を心の底で期待していたのだが。

「・・・それは・・・私が、申したい事です」

返ってきたのは期待とは程遠い、低く、苛立った声だった。

驚いた劉備が相手へ目を遣ると、苛立ちと悲しみがないまぜになったような表情の趙雲が、拳を握りしめて立っている。

顔を強張らせて、彼は更に続けた。

「劉備殿。私以外の者をお好きになったのであれば、今ここで暇(いとま)をお申し付けください。貴方のお気持ちを邪魔する気はございませぬゆえ」

酷く思い詰めた顔でそう告げる趙雲に、劉備は険を収め、慌てて彼の腕を引く。

「ま、待てまて!何を言い出すのだ子龍?私はそなた以外の者を好きになったことなどないぞ!どうしてそうなるのだ!?!」

趙雲は唇を噛みしめて顔を背けた。

「・・・・・名を・・・・・」

絞り出すような相手の声を、劉備は注意深く聞き返す。

「うん・・・?名??」

「昨晩、寝言で・・・法正殿の、名を」

消え入りそうな声で続けた趙雲を、劉備はぽかんとして見つめた。

頭の中でどう返そうかと彼は懸命に言葉を探すが、唇からは間の抜けた声しか出てこない。

「・・・・・・ね、ねごと・・・?」

劉備が脱力感に襲われている事に気付かない趙雲は、片手で顔を覆い、酷く落ち込んだ声を出した。

「殿が・・・それは嬉しそうに、法正、と呼ばれていたものですから・・・」

あっと、漸く劉備が理解したと声を上げる。

「まさか、それで子龍」

蜀の軍師の一人である法正は、人当たりの良い趙雲にしては珍しく、馬の合わない存在である。

だが彼は劉備の治める国を支える存在として重要な一人であることと、劉備自身が彼を高く買っている為、趙雲と法正はお互いに当たらず触らずの距離感での仕事仲間、という関係に徹しているようだった。

そんな趙雲にとって好ましくない人物の名が、隣で安らかに眠っている愛おしい人物の口から紡がれたのである。

この時間に一番耳にしたくなかった名前に彼は酷く狼狽し、深く嫉妬をして、夜明けには程遠い真っ暗な時間に逃げ出すように劉備の部屋を辞した。

独り自室に戻っても、先程の出来事に動揺してしまって眠れる訳が無い。

そこで、たまたま夜更かしが過ぎていた諸葛亮の部屋の明かりを見つけた趙雲は、気晴らしにと早出の仕事を半ば無理やり承って城を飛び出して行った、というのが今朝の事実らしかった。

「・・・寝言くらい、誰でも言うものではないか・・・?」

先程まで笑えない位に相手から冷たくされていた劉備はあまりの理由に呆れ顔で文句を言うが、趙雲は泣きそうな顔で首を振る。

「寝言くらいではありません!何故、あのように楽しそうな様子で彼の者の名を呼ばれたのですか?!」

理不尽な詰問に、温和な劉備にも我慢の限界が来そうだ。

こめかみの辺りを手の平で押えながら子龍、と低い声で名を呼ぶ。

「あのなぁ・・・夢だぞ?どんな状況だったのか、など憶えている訳が無いだろう!寝言で法正の名を呼んだから、私があれと浮気していると思った?流石に怒るぞ??」

趙雲は劉備の言葉に一歩も引かず、逆に否と言い返してきた。

「そう仰られても、私は聞きたくなかったのです!」

聞き分けのない子供の様な事を口にする趙雲に、劉備の口調は段々と強くなってゆく。

「寝言ひとつで機嫌を悪くされるのは御免だ!ではもう一緒に寝るのは止めよう!!」

「それはもっと嫌です!!!」

「っ、いい加減にしないか子龍!」

珍しく幼い駄々をこねる趙雲に、劉備がとうとう堪え切れなくなって大きな声を出すと、趙雲の瞳から大粒の涙がぽろりと零れ落ちる。

その涙をぐっと拳で拭って、趙雲は半ば無理やり劉備を引き寄せ、強く抱き締めた。

「分かっているのです、これが己の醜い我儘であると!あなたのお心を疑う矮小な己であると!!ですが、・・・ですが私は、貴方の口からはずっと趙子龍の名だけを呼んで頂きたいのです。目が覚めている時も、夢の中でも」

息が出来ないくらいの強い抱擁に、劉備は相手の胸元を叩いて首を振る。

その様子に気付いた趙雲が腕の力を緩めると、劉備から片頬をぎゅっとつねり上げられた。

「ああ!もう、まったく・・・」

腕の中から少し怒ったような顔の劉備が、こちらを見上げる。

「流石に平手打ちは出来ないからな」

ぎゅううっと頬をつねる力が強まって、趙雲が涙目になって眉を下げた。

「との・・・痛いです・・・」

力を弱めないまま、劉備は半眼で片眉を上げる。

「痛くしようとしているのだから当然だろう。聞き分けのない子供には仕置きだ」

「私は子供ではありませ、いたたたたっ!」

「うん?反論する前に言う事があるのではないか、趙雲??」

にっこり笑って優しく趙雲、と呼ぶときの劉備はかなり怒っている状態だと身を持って知っている忠臣は、目を閉じて項垂れた。

「・・・申し訳ありません・・・見っとも無い嫉妬から、劉備殿を困らせました・・・」

「私だけではないだろう?馬岱、孔明、季常、皆にも散々気を遣わせて」

「・・・・・はい」

素直に頷くと、つねっていた劉備の指が漸く趙雲の頬を離れる。

「だが、そなたは日頃真面目に仕事をしているから、皆が手伝ってくれたのだろう。改めて、皆にきちんと感謝の気持ちを伝えておくのだぞ?」

「はい・・・・・」

落ち着いた声で諭された趙雲が萎んだ声で返事をすると、先程までつねられていた頬を劉備に優しく撫でられた。

「全く、寝言ひとつで子龍がこんなに大騒ぎするとは思わなかった」

目を開けると、劉備が苦笑いを浮かべている。

「もう少し、私を信用してくれても良いのではないか?」

「申し訳ありませぬ・・・」

腕の中で盛大に溜息をつかれて、趙雲は居心地の悪そうな顔で謝るが、劉備は口元に指を添えて物憂げな表情を見せた。

「あれだけ冷たくされて、とても哀しかったぞ」

「・・・もうしわけ・・・」

己の今日の行いを改めて思い返し、相手への申し訳なさから謝罪の声すら途切れそうになる。

そんな趙雲へ、劉備から追い打ちをかけるような言葉が告げられた。

「次に同じ事をしたら、二度と部屋に呼ばないからな」

なんと、と思わず趙雲が悲痛な声を上げる。

「劉備殿!?それは・・・っ」

鬢のあたりへ小指を差し込みながら劉備はそっぽを向いて当たり前だ、と冷たく言い切った。

「こちらにとっては身に覚えのない疑いで居心地の悪い思いをさせられたのだ。二度三度と同じ事をされては堪らぬ」

「で、ですが・・・その・・・との・・・」

劉備の話に動揺してしまい、とうとう涙声になってきた趙雲の耳に、ぽんと投げられたような軽い口調の声が聞こえて来る。

「起こせば良いではないか」

「え・・・?」

己の両頬を、温かい両手にふわりと包み込まれた。

「私からおかしな寝言が聞こえたのならば、その場で私を起こして聞けば、こんなに拗れないだろう?同じ失敗も起きることはあるまい」

違うか?と目の前の劉備が微笑みかけている。

相手の言葉の意味を理解した趙雲の目にみるみる涙が溜まって、殿、と彼は泣き声を出した。

「りゅうびどの、もうしわけありませぬ・・・わたしは」

「ああほら、泣かなくて良い。私も少し意地悪を言い過ぎたな」

劉備は背伸びをして、泣き顔の趙雲の首に腕を回して抱き寄せる。

あやすように優しく頭を撫でながら、相手の名を呼んだ。

「よいか、子龍。寝言でそなた以外の者の名を呼ばぬ、との約束は恐らく守れないだろう。だがこうして二人きりで起きている時は、そなたの名だけを呼ぼう。だから、これからは夜中に独りで不安になったら、ちゃんと私を起こすのだぞ?」

泣き声が口から洩れてしまいそうな趙雲は、懸命に劉備の肩口で頷く。

「子龍、返事は?」

趙雲の様子を知りつつも、劉備が敢えて彼に言葉を促すと、ぎゅっと抱擁の力が強くなった。

「はい・・・はい、劉備殿・・・」

「うん、それで良い」

普段接している時とは違う幼さを見せる趙雲へ愛おしさが湧いた劉備は、相手の髪に口元を埋める。

「二人の間の悩みを、独りで頑張って、我慢して、無理に解決しようとしなくて良いのだからな?大切な私の子龍」

劉備の肩口に顔を埋めたまま、趙雲は嗚呼と溜息のような声を漏らした。

「まだ・・・私を、そのように仰って下さるのですか?」

「ふふふ、当たり前ではないか。さっきのように子供並みの駄々をこねる子龍も好きだぞ。まあ、駄々が過ぎれば仕置きするが」

笑いながらからかうと、趙雲が慌てて真っ赤になった顔を上げる。

「お許しくださいっ、あれは私の未熟、不足ゆえ」

構わないのだ、と劉備は目を細めて首を振る。

「そのような姿、私にだけ見せてくれたのだろう?」

「・・・・・はい・・・」

顔を赤くしたまま、趙雲が小さく頷いた。

相手の頬を撫でて劉備は穏やかに笑うと、彼の胸元に顔を埋める。

「ならば、これからもずっと、私だけの子龍でいて欲しい」

趙雲は片手で劉備を抱き止め、空いた手で相手の艶やかな黒髪をそっと撫でた。

「ありがとうございます・・・貴方様の優しさに応えられるように、精進致します」

その言葉を聞いた劉備は胸元から顔を上げて、悪戯気な目の光で趙雲に問う。

「ふうん・・・なにをどう、精進するのだ?」

顔の脇の黒髪を撫でていた趙雲の手が、愛おしげに頬から顎の線をなぞった。

「劉備殿を己のつまらぬ猜疑心から悲しませぬよう、苦しませぬよう、正直に愛し続けること、でしょうか」

さらりとこちらへ言い切ってみせた口説き文句に、今度は劉備の方が顔を赤くすることになる。

その赤みを帯びた頬へそっと口づけを落として、趙雲が笑い掛けた。

「いつか、貴方様の夢の中でも名を呼んで頂けたらと願っております」

首を傾げて、おやと劉備は困ったような声を出す。

「見事な口説き文句の次は、随分な我儘を言うのだな」

「私も、私だけの劉備殿で居て頂きたいのです」

「ううん・・・では、こう思ってはどうだろうか?」

劉備も自らの顔を趙雲の顔へ寄せて、囁く様な声で語りだした。

「そなたは私の夢の中でも、常に傍らに居てくれている、と。名を呼ぶ必要も無いほどの近さで」

今のように、と続けて、彼は先程自分がつねった辺りへ唇を寄せる。

柔らかい唇の感触が離れると、趙雲は甘い息をついて劉備を抱き締めた。

「劉備殿・・・そのお言葉、真に受けてしまいますよ?」

くすくすと軽やかな笑い声が趙雲の耳朶をくすぐる。

「ああ、構わない。子龍とずっと共に居られるのは、私にとっても本望だから」

劉備は、密着した相手の胸がどきりと鳴ったように聞こえた。

「っ!、貴方様には、かないません」

「ふふ、大好きだ、子龍」

小さく焦る趙雲が愛おしくなり、彼の耳たぶに戯れ気分で口づけをする。

すると趙雲の肩がぴくりと跳ねて、無言でその手が劉備の腰をぐいと引き寄せた。

一瞬で相手の空気が変わった事に気付いた劉備が、慌てて声を上げる。

「こ、こら子龍!なにを」

「劉備殿、お慕いしております」

抱擁の力を緩めないまま、趙雲は劉備の耳朶に口づけをし、甘く咬んだ。

急に与えられた甘い刺激に思わず声を上げそうになるが、劉備は必死に我慢して相手の背中を叩く。

「時間を考えないか!これ以上はもう・・・っ!?」

暴れる相手に構わず、着物の衿に隠れたうなじへ口元を埋める趙雲。

劉備はどうにか相手を引きはがそうと身体を捩じらせるが、密着しているので胸元にも抵抗する為の腕すら入れる事が出来ず、更にはうなじをなぞる唇の妖しい感覚にいまにも力が抜けてきそうである。

「しりゅ、やめ・・・」

上がりそうな息を抑え付けて、やっとの思いで懇願するような声を出し続けると、趙雲がゆっくりと愛撫を止めて抱擁の力を緩めた。

劉備から急いで離れて目線を落とし、趙雲は気まずそうに口籠る。

「・・・申し訳ありません」

目を潤ませたままの劉備が、彼を軽く睨んだ。

「時間が、分からないそなたでは無いだろう?」

窓の外の夕日にはまだ早い空色をちらりと眺めて、趙雲は項垂れる。

「申し訳ありません・・・殿が、あまりにも愛おしく・・・離れがたくなってしまって・・・」

ついさっきまでの熱情が嘘のようにしょげてしまっている相手に、劉備も怒りきれず言葉に迷った。

「いや・・・わ、私も調子に乗って、そなたにちょっかいを出してしまったから、な・・・」

「殿・・・・・」

熱の冷めない瞳で、趙雲が劉備を見つめる。

その目を見た時、首筋に与えられた甘い刺激を思い返して劉備は耳が熱くなった。

片手で赤い耳を隠すような仕草をしながら、ええと、と劉備は言葉を探す。

「今は早出の疲れもあるだろう、部屋でゆっくり休んだ方が良い。それで余裕が出来たら・・・夜に・・・無理は言わぬが・・・」

「いえ、伺います」

気後れしたような言い方をした劉備に対してはっきりと返答した趙雲は、相手の手をそっと取って微笑み掛けた。

「必ず伺います」

「子龍・・・」

「長居をしてしまって申し訳ありませんでした。そろそろ失礼致します」

手を離し、礼儀正しく頭を下げて、趙雲は劉備に背を向ける。

迷う様子も見せず扉へ向かって歩いてゆく趙雲の背をただ見送る筈だったのに、劉備の身体が自然と動いた。

「子龍!」

切羽詰まった声で呼び掛けられて振り返った趙雲の胸元に、劉備が飛び込んでくる。

そしてそのまま彼は趙雲の首に腕を回し、唇を重ねた。

一瞬動きを止めた趙雲も、ゆっくりと劉備の身体を抱き締めて口づけを受け入れる。

長い口づけの後、身体を離した劉備が目元を赤くしながら目線を泳がせている。

「今宵の、約束に・・・」

相手も離れがたい想いを抱いていたと知った趙雲は、口元を綻ばせてもう一度優しく抱き締めた。

「ありがとうございます。このお約束、しかと忘れませぬ」

「うん・・・待っている」

相手の額に軽く口づけを落として、趙雲は静かに身体を離す。

名残惜しげに劉備の頬をふんわりと撫でると、目を細めて笑い掛けた。

「失礼いたします、劉備殿。ではまた・・・後ほど」

愛おしい人が頷いた様子を確認して、趙雲は静かに退室して行った。

一瞬の夢のような甘い浮遊感から抜け出せない劉備は暫くその場に立ち尽くしたままぼんやりしていたが、扉の外から入室を告げる声が聞こえて我に返る。

急いで返事をしながら衿の辺りを直して普通を装うが、入室してきた諸葛亮は劉備を一目見て穏やかに笑んだ。

「趙将軍の誤解は解けた様ですね?」

核心を突いた一言目に、劉備は苦笑いして肩を竦めるしか出来ない。

「孔明には全てお見通しか」

「いいえ。私に分かるのは、殿が現在ご安心なさっているという結果だけです。お二人の間に横たわっていた原因まではとてもとても」

そこまで語って口元を羽扇で隠した軍師に、劉備が胡乱な目を向けた。

「・・・そう言いながら笑っているのは何だ?」

「ふふ、仲の良すぎるお二人の、痴話喧嘩の理由まで知りたくありませぬ、と申しておきましょう」

悪戯気に目を光らせて軽やかに言い切った諸葛亮の言葉に、劉備の顔がさっと赤くなる。

「!?ち、痴話喧嘩とは失礼な!!」

「いえ、それだけお二人の仲が宜しいのは喜ばしい事なのですよ。喧嘩も出来ぬ程に冷たい関係の方が、よほど恐ろしいものです」

諸葛亮の話から、劉備の脳裏に今回の原因であるあの二人がぱっと浮かんだ。

「・・・あー・・・それは、分かる・・・」

「おや、何かございましたか?」

面倒そうな劉備の声を耳敏く聞きつけた軍師が早速問い掛けてくる。

劉備は慌てて手を振って何も無い、と返しながら、先程趙雲と話していた中で諸葛亮に関する聞きづてならない事実があったことを思い出した。

「ところで、孔明」

「はい」

腰に手を当てて、劉備が声を改める。

「昨夜は、何時頃に休んだのだ?」

「夜ですね」

口元を隠したまま顔色を変えずに即答する軍師を、劉備は更に問い詰める。

「何時だ、と聞いている」

羽扇越しに、諸葛亮が小さな溜息をついた。

痴話喧嘩に巻き込まれたお蔭で、こっそり続けていた夜更かしが見つかってしまった軍師は、いつも心配をしてくれている主君へ正直に謝るしか道は無い。

これでまた暫くの夜更かし禁止令が己に告げられるのだろうと諸葛亮は覚悟して、深々と頭を下げた。

 

 

 

(おわり)